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学生のみなさまが、いまよりちょっと楽しく賢くすごせるように

理由がないから理由を考える

私の祖母は、漢文の本を書くくらいなのですが、私の古文漢文がさっぱりなのは、周知の通り。もし、今回のテストで古典がなかったら、私はかなり優秀な部類に入るであろうが、そうはいくまい。まあ、そこまで悪くはなかったために、塾送りは免れる。もう少しこのブログを更新することもできそうです。

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おそらく、私も真面目にやれば、平均点くらいは行きそうです。でも、真面目にやってないんでしょうね。なぜかって、誰も、古典をやる論理的理由を示してくれないのです。結局、「やるしかない」で片付けられてしまいます。そんな理由では、私の大切な青春の無駄遣い以外の何物でもなく感じられてしまいます。そうではない、と言ってくれる人がいるといいのですが。

じゃあ、なんで、こんなことを大人は私達に勉強させるのだろう。もちろん、古典が素晴らしい、古典で生きていく、という人を否定する気は全くありません。でも、すべての人が、古典で生きていくわけではないのは、他のスポーツとかとも同じです。だから、部活は選べるけど、家庭科は必修なんですね。

ここからは、あくまでも、私の考えです。

大学、しいては日本社会は、このことについても、理由を考えない人を求めているのでしょう。そもそも、古典を勉強する大義名分などなく、ただやらせているだけです。朱子学から始まる、強固なヒエラルキー社会において、やらされていることに理由を問う者などいらないのです。そう、理由も考えず、ただ与えられたものを黙々とこなす人を大学は、日本は、求めているのです。

でも、それは過去の話だと主張する人も多いでしょう。確かに、官僚たちは、その習慣が根強く残っていますが、一般企業では理由を考える人を求めつつあります。じゃあ、なんで古典がなくならないのか。それは、理由を考えない人が、私達の教育を考え、実行しているからです。おそらく、文部科学省や、教育委員会の人々は、古典を教える理由など考えたことはないでしょう。でもね、そんなことをやっていたら、日本は沈没するんだよ、って言える人が、そんな教育のせいで生まれてこない。この教育の負の循環に日本は陥ってしまいました。

よく、高校を中退した人や、よくわからない大学に行った人が、大成功を収めたりします。大人たちは、それは偶然であり、私達には起こりえない。だから、地道に勉強しなさい(事実を無視して、大人に従え)、というわけです。しかし、これは偶然ではなく、必然なのです。高校にいる意味、大学に行く意味を考えたのかどうかが、その後の人生で重要になっている、理由を考えることができた人だけ、大成功できるのです。

「真面目」と言いますが、それは、「服従」と同じです。「反逆」と言いますが、それは、「革新」と同じです。真面目である必要なんてどこにもないんです。自分が何を学ぶべきなのか、それを本当に考えることができた人だけ、大成功することができるのです。

 

余談

だから僕は、自分で、「力学」「航空宇宙工学」「プログラミング」・・・、を勉強しています。自分に何は必要なのか、考えた結果です。確かに、自分で考えて行動することは、服従することに比べはるかに難しい。でも、それをしなくてはイノベーションは生まれないのです。